死んだ魚も息吹き返す その1


むかしの話。

 

わたくしナカムラは、中高大とずーっと美術に興味を持ち続けて生きてきた根深いタイプのサブカルクソ女でありまして。

今でも都内の美術館や博物館のスケジュールを事前にザーッとチェックして、興味のあるものに目星をつけて、その中でもそそられるものにはちゃんと出向く。
さすがに社会人になってから創作活動はぱったりやらなくなってしまって、今では時々ボールペンや絵の具でぐるぐる書き殴るぐらい。
でも当時使っていた画材は何一つ捨てることなく全て保管してあって、引っ越す際に実家に置いてきたりせず、自宅の目に入る場所に置いてる。

「美術」というクソみてえなジャンルにどっぷり頭のてっぺんまで浸かって生きてきたわたしにとって、それを職業にすることはなくても、人生から死んでも切り離せないものになっているのは間違いない。

つまり、わたしにとって「美術」は生きてきた道であって、生きていく道でもある(ドヤ)


これまでの人生、お花屋さんにもなりたかったし宇宙飛行士にもなりたかったし、モー娘。にも入りたかったし…。
考古学者や作家になりたかった時期もあって、興味の移ろいは人より早く、多かった気がする。
それでも美術というジャンルに飽きることなく10年以上好きでい続けられるって、我ながら本当に凄い。

そもそも、わたしと美術の出会いを語りたい。
自分でも時々思い返さないと、鮮明なところを思い出せなくなっちゃうから、記録もかねて。


わたしが美術の世界に入るキッカケは、中学1年生の時の担任が与えてくれた。

こう見えてわたし、昔は進学校合格を目指してゴリゴリ勉強させられまくり、死ぬかと思った小学校時代だった。
友達と遊びたくてもほぼほぼ毎日塾、塾、塾。
小学校のクラブ活動にも参加出来なかったし、当時やってたダンススクールも5年生の時辞めさせられた。
姉は千葉でトップクラスの進学校へ行っていて、プレッシャーやべえ。メンタルボコボコ。

なにがなんでも姉と同等レベルの学校に受からなければ。さもなくば殺される。

って環境下でくっそガリ勉気取って、兄と弟が時間差で家を出てそれぞれ時速〇キロで進んで、後から出た方が先に出た方に追いつくまでの時間とか一生懸命計算してた(くそなつけえ)(和差算が好きだった)(鶴亀算はマジ無理)

そんな中、両親の関係がかくかくしかじか。
家庭内は崩壊危機。
塾への送り迎えは叔母さんがやってくれるようになったり、迎えに来たと思ったらばあちゃんちに置いてかれたり。
ここには書ききれないくらい、色んなことがあって。

それでも勉強はやれだなんて、一体何のために?
進学校に合格して親の笑顔が見たかったし、褒められたかったし、追いかけ続けた姉に追いつきたかった。
でもそれに意味がないとわかったら、勉強する意欲なんて起こりましぇーん。
あっという間に引きこもり、塾ではずっと寝てるか白目剥いてた。

そんなこんなで志望校に見事に全部落ちまくり☆
このレベルなら寝てても受かるとほんっとに最終的なすべり止めの学校へ進学したのでした(/・ω・)/


そう、そんな状態で進学した中学校に、何の意欲も見いだせない死んだ魚の目をしたふーかたん。
友達作りもそこそこに、一人で端っこで本読んでるだけの陰キャへ。
小学校の時クラブ活動を禁止された腹いせで、部活にも入らず。
大好きだったダンスもスクール辞めさせられた腹いせで、二度とやらんと腹に決め。
少なからず進学校合格を目指して勉強していた分、最初の授業は簡単すぎて不貞寝。

入学早々コッテコテの問題児が誕生したのであった。

そこで現る担任こぎくたん。
美術の先生で、20代後半から30代前半くらいだった、小奇麗な先生。

コテコテ問題児のふーかたんに友達作れとか、部活入れとか、授業受けろとかお説教はしてこなかった。
ただ、「あなたには美術のセンスが絶対ある、やってみない?」としつこく言うばかり。
その当時、ただでさえ陰キャな自覚あんのに美術なんて始めたらクソ陰キャ街道まっしぐらじゃねえか!と反発。
それでもしつこく美術のセンスがある!と謎に推しまくられた。

あまりにしつこいので美術は始める気はないけど、友達もいないふーかたんはこぎくたんを話し相手にした。
放課後毎日のようにこぎくたんに呼び出されて、他愛もない会話をするだけ。
単純バカなふーかたんはだんだんとこぎくたんに心を開いていき、先に書いた小学校時代の諸々をぽつりぽつりを打ち明けるように。

 

長くなったので次回に続く。